P--1375 P--1376 P--1377 #1自力他力事    自力他力事                          長楽寺隆寛律師作 【1】 念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥 陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。 【2】 まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろき ことをばいはじ、心にもひがことをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏す るものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならず まゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。かやうにわが身をつつし みととのへて、よからんとおもふはめでたけれども、まづ世の人をみるに、い かにもいかにもおもふさまにつつしみえんことは、きはめてありがたきことな り。そのうへに弥陀の本願をつやつやとしらざるとがのあるなり。さればいみ じくしえて往生する人も、まさしき本願の極楽にはまゐらず、わづかにそのほ とりへまゐりて、そのところにて本願にそむきたる罪をつぐのひてのちに、ま P--1378 さしき極楽には生ずるなり。これを自力の念仏とは申すなり。 【3】 他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてた やすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念は つねにおこりてとどまらず。かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたの み仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、 この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行 住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、 目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの 罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせお はしますなり。されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位 をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんこ とも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひら き、やがて仏にならんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみ もわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向 に念仏するを他力の行とは申すなり。 P--1379 【4】 たとへば、腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ま してはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、 たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿を かかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道 もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとお もひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐ れたり。ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のお もければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれ ども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなけ れば、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、阿弥陀仏、目のまへに あらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、 無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんご ろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力 の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生 することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すなり。お P--1380 なじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがことにて 候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。   [寛元四歳丙午三月十五日これを書く。]                        [愚禿釈親鸞七十四歳]